・顔も知らない隣人たちの集まる「社会」(ソサエティ)
会ったことも話したこともないけど、きっと「それってヒドくない?」と思ってくれる
人たちがいると思うし、そう信じたい。
そういう気持が多くの人達に分け持たれているなら、この世には「社会」が存在していると僕は考えている。
だから、社会とはカタマリのサイズの問題だけじゃない。
「いくらなんでも、それないわ」と言ってくれる人がいるはずだという「信頼」があるかどうかということを
含んでいる。
いくらイイ感じの規模のカタマリがあって、上っ面では楽しそうな顔で、ショッピングモールを笑顔で歩いていても
アフリカ系ルーツの父親を持つ友だちが誰かに「オマエ、日焼けしすぎだろ?」などどいう暴言を吐かれた時
みんながそれを見過ごしたり、「ま、よくね?それぐらい」とかたづけたり、言われた者が
「どうせ、いつものことだからさ」と諦めたりしているなら、そこには社会はない。「群衆」がいるだけだ。
社会とは、「信頼と想像力の共同体」だ。
ちょっとカタい。言い換える。「あるていど信じられる他人のカタマリ」だ。
・1人の人間がいることの奇跡
みんな同じ弱い小さな人間なのだが、やはり人間はみんな同じではない。全員違う。
「すべての人間は、世界の歴史にたった1度しか登場しない」と言い換えてみてもよい。
取り換えがきかない人という意味だ。そのことは、誰がどう反論しようと、ほとんど奇跡に近いことだ。
君と僕がここに今いることそのものが奇跡だ。
だから民主主義のスタートラインは「個の尊重」だ。
もう2度と同じ人間は永遠に登場しないから、「その人」がここやあそこにいるという事実が貴重で
ありがたいことなのだという考えを、その一言で表現したのが「個の尊重」だ。
・アメフット—民主主義の国が生んだシステム
アメフットのポジションを、もう少し詳しく観られるようになると分かると思うのですが、
全てのポジションには、どれだけ地味に見えても、ボールをタッチダウンするまでの間に
ひとつも欠くことができない役割と機能があるんです。
パスをして華やかにそれを受け取る人に注目がいきがちですけど、いずれかの役割が少しでもほころびると
必ず負けます。
でもこういうシステムは、別の言い方をすると、どんな能力、どんな特徴、どんな癖を持った人間にも
必要とされるポジションが用意されているということです。
このスポーツではすべての人間の能力を生かすことができるのであって、僕はここにアメリカという国の
活きた民主主義のスピリットが表現されていると思います。