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「いじめのリアル―CEP・子どもひろばの出前授業ー23,500人の子どもの声」を出版しました

「いじめのリアル―CEP・子どもひろばの出前授業ー23,500人の子どもの声」を出版しました_c0404045_11323586.jpeg
2021年11月1日初版第1刷発行 100冊
2022年11月1日初版第2刷発行 1000冊
発行 株式会社 小学館スクウェア
この本の編集と出版準備については2016年森村豊明会の助成を受けています。
出版については2019年LUSH JAPANチャリティバンクと2022年
LUSH JAPANチャリティバンクの助成を受けています。

1997年発足以来、小中学校を訪問して「いじめ防止出前授業」に
取り組んで来ました。
発足20周年を機にそれまで保管してきた子どもたちのアンケートを
まとめて出版しました。

学校のアンケートと違って無記名の為、子どもたちの自由記述の欄には
正直で切実な声が溢れているためその部分を中心にまとめました。
そこにはいじめられている子だけでなく、いじめてる子も見ている子も
それぞれがつらく苦しい思いを抱えている事が伝わります。

多くの皆さんに読んで頂きたく、そのほとんどを
全国の公立図書館、教員養成大学図書館、学校図書館などに寄贈しました。



# by ckdmhrbb | 2025-12-31 11:28 | いじめのリアル 23,500人の子どもの | Comments(0)

「いじめのリアル―CEP・子どもひろばの出前授業ー23,500人の子どもの声」を出版しました

「いじめのリアル―CEP・子どもひろばの出前授業ー23,500人の子どもの声」を出版しました_c0404045_11323586.jpeg
2021年11月1日初版第1刷発行 100冊
2022年11月1日初版第2刷発行 1000冊
発行 株式会社 小学館スクウェア
この本の編集と出版準備については2016年森村豊明会の助成を受けています。
出版については2019年LUSH JAPANチャリティバンクと2022年
LUSH JAPANチャリティバンクの助成を受けています。

1997年発足以来、小中学校を訪問して「いじめ防止出前授業」に
取り組んで来ました。
発足20周年を機にそれまで保管してきた子どもたちのアンケートを
まとめて出版しました。

学校のアンケートと違って無記名の為、子どもたちの自由記述の欄には
正直で切実な声が溢れているためその部分を中心にまとめました。
そこにはいじめられている子だけでなく、いじめてる子も見ている子も
それぞれがつらく苦しい思いを抱えている事が伝わります。

多くの皆さんに読んで頂きたく、そのほとんどを
全国の公立図書館、教員養成大学図書館、学校図書館などに寄贈しました。



# by ckdmhrbb | 2025-12-31 11:28 | いじめのリアル 23,500人の子どもの | Comments(0)

ワークショップに参加した子どもたちにカードを配っています

ワークショップの最後にオリジナルカードを配ります。
10種類の動物カードで、小学生向けの裏面は共通ですが、
中学生向けの裏面は動物それぞれに違っています。

ワークショップに参加した子どもたちにカードを配っています_c0404045_09322630.jpg
小学生向け裏面  「いのちはひとつひとつちがってる 
          おなじひとはどこにもいない
          じぶんのいのちをたいせつにしよう」

中学生向け裏面  イヌ「広い宇宙に地球のいのちは1つだけ
            広い地球にあなたのいのちは1つだけ」
 
         サル「いじめはどうしてだめなのか?
            それを考えられるのは人間だけ」

         ネズミ「自己中は自分さえよければいいわがまま
             自分も人も尊重したいね」

         イカ「悪口はことばの暴力
            それは見えない心の傷を生む」

         カエル「友達はおたがいに助け合いたい
             もっといい友達になれるから」

         キツツキ「仲間はずれで人は孤立する
              誰か1人でもそばにいて欲しい」

         ゾウ「思いやりは人の気持ちを考えること
            相手にあげたり自分がもらったり」

         シカ「シカトはまるでいないみたいに無視される
            自分の存在を否定されたら誰でもつらい」

         ネコ「友達は自分のことをわかってくれる人
            自分もわかりたいと思う人」

         クマ「困ったときは1人だけで悩まないで
            相談する勇気も大切」

        
































# by ckdmhrbb | 2025-12-31 10:02 | その他 | Comments(0)

教育という病―子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 内田良

(名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授)より

第1章  巨大化する組体操― 感動や一体感が見えなくさせるもの

・組体操では事故の件数が多いだけではなく、事故の発生率も高いことが

推測されるのである。

組体操の負傷事故は、その部位別内訳を見ると、更にその深刻さがよく理解できる。

負傷件数のワースト3種目について、跳箱運動における負傷事故の3分の1

バスケットボール事故の3分の2が「手・手指部」である。

それとは対照的に組体操では体の中心を成す体幹部の負傷が多い。中でも、重大事故に

つながりやすい頸部の割合が高い。また腰部の割合も比較的高い。

そして頭部の割合が大きいことも注視すべきである。これは頸部と同じように重度障害

さらには死亡という最悪の事故にもつながりかねない部位である。

・巨大な組体操の画像や動画を見た時に、真っ先におどろきを覚えるのは、おそらく

その「高さ」であろう。組体操の頂点は、人の背丈の何倍もの高さにある。

ここで、1つの法令を紹介したい。労働の安全衛生についての基準を定めた厚生労働省の

「労働安全衛生規則」である。

519条 事業者は、高さが2メートル以上の作業床の端、開口部等で墜落により

労働者に危険を及ぼす恐れのある箇所には囲い、手すり、覆いを設けなければ

ならない。

     2.事業者は前項の規定により、囲い等を設けることが著しく困難な時、または

       作業の必要上に臨時に囲い等を取り外す時は、防網を張り労働者に安全帯を

       使用させる等墜落による労働者の危険を防止するための措置を講じなければ

ならない。

労働者である大人が2メートル以上の所で仕事をするときには、ここまで厳しい管理が

  事業者に要請されている。一方で子どもたちが組体操という高所での教育活動に従事する

  時には、学校側には何の管理も求められない。

  組体操には「囲い」もなければ「手すり」も「覆い」も「防網」もない。上段に位置する

子どもたちは、つかまる所も何もない状況で、組体操という高所作業に取り組んでいる。

例えるなら、高さが35メートルのグラグラする脚立の天板に、子どもが何の安全対策  

もないまま上るということである。大人の労働の世界ではあってはならないことが、

子どもの教育の世界で繰り広げられているのである。

・弁護士の渡辺輝人氏は、労働安全衛生規則に加えて、建築基準法の視点からも組体操の

実践を問題視している。渡辺氏が着目したのはピラミッドによじ登っていくプロセスで

ある。氏によると建築基準法では小学校の階段について、落下防止措置として次の様な

規制がかけられているという。

1.1段の高さは16センチ以下

2.踏み面の広さ23センチ以上

3.3メートルごとに踊り場

4。手すり設置

渡辺氏は、人間ピラミッドは「足場すらない人の体をよじ登っていくわけで、そうなのに

手すりも無ければ安全帯もつけない。踊り場もありません。建築基準法や労働安全衛生法

の観点からは「危ない」と言わざるを得ないでしょう。運動会の競技ごときで、なぜ

社会人より危ない目に遭わなければならないのか、筆者には分かりかねます」と指摘する

・組体操の巨大化は高所に登る生徒を危険にさらす。実はそれと同時に注目しなければ

ならないのが、土台の生徒にかかる負担である。はたして、どれほどの負荷がかかって

いるのか。

組体操の指導書には「小学校では7段くらいまで可能」と書かれている。

7段でも最大の負荷量は2.4人分、小学6年生男子平均383㎏で計92

女子平均39㎏で計94㎏、

9段では最大負荷は31人分で6年男子で119㎏、女子で121㎏である。

・率直に言えば、今日の巨大化・高層化には歯止めをかけるべきだと考える。

「感動」「一体感」「達成感」こそが教育として重要であるというならば、決して高さや

大きさを求める必要はない。1段や2段であっても、一致団結したダイナミックな演技は

可能であり、そこで「感動」「一体感」「達成感」は十分に得られるはずである。

2章  2分の1成人式と家族幻想 ―家庭に踏み込む学校教育

・統計数理研究所の日本人の国民性調査で「1番大切なものは?」という質問に「家族」

と答えた者の割合は1958年以降ほぼ右肩上がりで増加している。

しかしながら「平成25年度版犯罪白書」に示された2012年の殺人検挙事案における

加害者と被害者の関係で、加害者の536%が親族であり、不審者は117%である。

・全国の小学校で拡がる新種の行事が小学4年生が10歳になった節目を祝うものであり、

保護者同伴で開かれ、準備には1020時間程度を費やし実に大掛かりな学校行事である。

目的は「自分の成長を振り返り、これからの過ごし方を考えさせること、保護者に感謝の気持ちを

伝えること」という。

ここで問題視しなければならないのは保護者に感謝の手紙を渡す、保護者から手紙を

もらうこと、自分の生い立ちを振り返ることである。

・暴力を受けた子どもが何を感じるか。1部の家庭では子どもが虐待状況に置かれている

親に対して恐怖心や嫌悪感が先立ってしまうような子どもに「親に感謝しなさい」と

どうやって説得できようか。しかも、その子どもたちは学校では健気に何事もないように

振る舞う。大人たちが平和な家庭幻想に酔いしれている間、被虐待の子どもは「笑って

ごまかしたり、真実を隠そうとする」幻想を先生たちが推奨すれば、被虐待児のケアを

するどころか、むしろ傷つけることになってしまう。

皆楽しそうに見えたというだけで、式の成功を確信するわけにはいかない。それぐらい

家族の問題というのは深く、見えにくいものである。

本章で強調したいのは感謝の強制そのものよりも、繰り返すように虐待を受けた子どもへの

配慮の欠如が問題であるということだ。

・もう1つ慎重に考えなければならないのは、生い立ちを振り返るという取り組みである

生い立ちを振り返ることの何が問題なのか。端的に言えば、家族が長年にわたって幸福に

満ちていること、そして、その構成員もずっと変わらず今日まできていることが暗黙の

前提とされている点である。

過去を振り返るという実践は、子どもだけでなく保護者の側にも厳しい現実を突きつける

家族というものは自分の思いどおりにならないことがしばしばである。特殊な事情を経た

保護者にとっては過去を振り返ることが困難な場合もある。

死別や離別だけでなく、「ステップファミリー」の存在にも目を向けなければならない。

家族の多様化が進む時代において「保護者に子どもの過去を問えば、すぐに答えが返ってくる」

という発想はそろそろ賞味期限切れである。家族に様々な形があり得ることが前提とされる

べきである。学校行事の中に取り込み、全員にそれを強制するというやり方は

見直されるべきである。10才の節目は家庭背景をわざわざ根ほり葉ほり引き出さなくても

祝うことができる。学校は家庭背景をあれこれ活用する場であってはならない。

家庭背景を問わず、子どもたちが前を向いて生きていけるような形での「2分の1成人式」が望まれる。

3章 運動部における「体罰」と「事故」―スポーツ指導の在り方を問う

・暴力に甘い教育界

20151月末、文部科学省は公立学校における教職員の懲戒処分状況を発表した。

中でも「体罰」が過去最多、大幅増、4000人処分。

ただし処分の重さについて、2013年度、自動車の「飲酒運転」では68件の処分があり、

うち約半数の33件が最も厳しい「懲戒免職」の処分を受けている

また「わいせつ」行為については205件の処分中約6割に当たる117件が「懲戒免職」

他方で「体罰」は3953件のうち「懲戒免職」はなんと0件である。生徒の中には

鼓膜損傷が24件、骨折・捻挫が31件ある。重大な傷害だと思われるが、それだけでは

懲戒免職になることはほぼ確実にないのが現状だ。尚、その他には外傷が126件、打撲が

292件起きている。

処分全体に占める懲戒免職の割合は飲酒運転は514%、わいせつは599%、一般の

公務外での傷害・暴行等では338%であるのに対して、体罰は004%となる。

「体罰」はたくさん発覚するようになったとはいえ、発覚してもその処分はほかの問題

行動と比べて実に甘い。

暴力に代わる効果的な指導方法を生み出すべく、みんなで知恵を絞ろうではないか。

体育の専門家、教育の専門家、学校関係者は暴力無しでどのような指導が可能か追及して

いかなければならない。今日はもう暴力に頼る時代ではない.言論に頼る時代、知性に訴える

時代なのだ。

・スポーツにおける暴力と事故の関係

夏季の特別稽古は「暴力」に値するものではない。ただ、精神面の鍛錬を重視するため

厳しい我慢や練習を強いられる。暴力ではないものの、過剰鍛錬と見ることができる。

それは「生命の安全という点から言えば危険」なものである。暴力性はないとしても

精神論にもとづいた過剰訓練は身体に大きな負荷がかかるため重大事故に結びつきやすい

高い気温や湿度の中で、身体が耐えきれないほどの運動をする。熱中症という結果は

そのトレーニングがいかに不適切であったかを示している。

大貫隆志氏らによる「指導死」(高文研)という造語は、その意味では卓抜な皮肉である。

同書によると「指導死」とは一般的に「指導」と考えられている教員の行為により、

子どもが精神的あるいは肉体的に追い詰められ、自殺することを指す。指導という名の

もとでの暴言や暴行により、子どもが自ら命を絶ってしまう。はたしてそれを私たちは

「指導」と呼び続けて良いのか、そう言った問いを「指導死」は内包している。

学校的文脈のもとでは、暴力は「教育の一環」「指導の一環」と解釈される。だから

「体罰」は容認される。教育的な配慮のもとで起きたこと(起きてしまったこと)なのだから、

大目に見てあげようというのである。

*参考資料 学校管理下におけるスポーツ死の実態

文部科学省が2005年から2013年の間に死亡または障害(7級以上)の重大事故が起きた

学校の設置者に対して行った調査がある。「学校事故対応に関する調査研究 調査報告書」

によると832件の重大事故について558件に関する回答が得られ、うち189(33.9)

が部活動中、94(16.8%)が体育の授業中だったという。

1983年から2013年度の過去31年間に運動部活動で850人の子どもが命を落としている。

そのほとんどが中学校と高校で占められている。とくに高校での死亡事故は多く

524(61.6)起きている。

主要運動部活動について柔道部とラグビー部が突出して高い。死因別に見た死亡率では

頭部外傷においては柔道とラグビーは他の競技との差は言葉で表現できないくらい大きい

突然死に関してはラグビーのみ目立って高い。

4章 部活動顧問の過重負担

・未経験での顧問担当。それゆえの自助努力

・土日も指導のために出勤

・土日の出勤に対する手当はごくわずか

・事故が起きた場合の責任が問われる

・過労による健康問題

・家でも夜遅くまで仕事

・教員のボランティア精神に依存した指導

・現在の制度上の限界

・当の競技を専門とするインストラクターの導入

・「善きもの」の眩さゆえに、リスクが見えなくなる。前章では子どものリスクの視点から

運動部活動での暴力が教育と結びつき、それが重大事故の背景にもなっていることを指摘した。

本章では指導者である教員のリスクに着目する。

「善きもの」の強迫から逃れられないのは、生徒だけではない。教員もまた、まさに教員という

立場であるがゆえに、教育という「善きもの」から逃れることができない。

部活動の指導を拒否することは、教員としての職務を放棄するかのようにも見えてしまう。

教員は部活動の指導という「善きもの」の世界から身を引くことができずに、みずからの

心身の健康を危機にさらしている。QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を損なうリスクと

でも言い表せよう。しかしながら教員のリスクは生徒のリスクに比べれば、まったくと

言っていい程言及されていない。

・日本の教員の労働時間

20146月に海外からのニュース。経済協力開発機構(OECD)が世界34か国の

「国際教員指導環境調査」によると日本の教員の勤務時間が最も長かった。中学校教員

対象で、1週間当たりの勤務時間数は日本は53.9時間で参加国の平均は38.3時間。

勤務時間のうち授業時間に費やした時間は日本は17.7時間、参加国の平均は19.3時間。

課外活動の時間は日本は7.7時間、参加国の平均は2.1時間

つまり日本の中学校教員は勤務時間は長いが、それは本務であるはずの授業時間に費やされて

いるわけではないということである。

5章  柔道界が動いた―死亡事故ゼロへの道のり

・柔道事故の特徴

学校管理下の死亡事例は1983年から2013年までで118件、中学校が40(33.9)

高校が78(66.1)

学年別では1年生が多い。中学校では21(52.2)、高校では51(65.4)

死亡の原因はほとんどが頭部外傷で、中学校では30(75)高校では46件(59%)

・海外での柔道事故

イギリス 1988年以降18歳以下の死者、重傷者はゼロ

アメリカ 過去10年間 18歳以下の死亡・重度障害者はゼロ

フランス 過去15年間 脳損傷小児患者はゼロ

・空気が変わった―3年間で死亡事故ゼロ

日本では過去30年間に学校の柔道で118名の子どもが亡くなっている。

2009年に4件 2010年に7件 2011年に3件だが、2012年以降突然ゼロになった

理由は学校の部活動をはじめとする柔道の指導現場で頭部の外傷に対する意識が高まった

2011年度から試行的に全柔連が設けた「公認柔道指導者資格制度」(2013年より完全実施

学校や町道場などの3段以上の指導者には、全員が都道府県の柔道連盟開催の「安全指導

講習会」を受講するよう要請がされた。講習会では先の「柔道の安全指導」に沿って

頭部や頸部の事故防止をはじめとして安全指導を徹底することが求められた。

終章  市民社会における教育リスク

特徴 ・リスクが直視されない

   ・リスクを乗り越えることが美談化される

   ・事故の発生が正当化される

   ・子どもだけでなく教員もリスクにさらされる

   ・学校だけでなく市民もまたリスクを軽視している

 



# by ckdmhrbb | 2025-04-28 15:29 | 最近読んだ本より | Comments(0)

エコロジカル子ども論― 教育から共生へ   より


山下英三郎(スクールソーシャルワーカー)

・崩壊した地域共同体と多様化する家族形態の中で、孤立化を強いられている

子どもたちに必要な事は、他者との出会いが保障される場なのである。学校が

これからの時代に可能性を有するとすれば、そのような場としての可能性を

認識し、活用する事である。子ども同士だけでなく、家族やその背後にある

地域までをも巻き込んで、共同性を再構築する資源として、学校は絶好の場

と思うのだが。

・私たちの文化では、問題を抱えることを恥ずべきことだととらえる傾向がある。

しかし、誰一人として問題に直面することなく生きていくことはできない。

むしろ、人が生きるということは、多かれ少なかれ問題を抱えながら生きると

いうことである。にもかかわらず、多くの人が自分の遭遇した困難を、他者に

気付かれないように隠そうとし、独力で解決しようと努める。ところが、内に

閉じ込めることによって気持ちが軽くなるかというと、逆に深刻さの度合いを

深めていく結果に陥りがちである。直面している事態をオープンにして、他者に

語れば、話をしただけで苦しみが軽くなることもある。上手くすれば、適切な

アドバイスや具体的なサポートも得られる可能性もあるだろう。このことは

個人のレベルについても、集団や組織についても言える事である。

・学者にしろマスコミにしろ、家庭の養育力を問題視する論調で足並みを

揃えているが、傷を負っている者をさらに責めるのは、社会的いじめとしか

言えない気がする。そうした行為は、問題解決には程遠く、場合によっては

むしろ状況を悪化させることにつながりかねない。

私は、他者の子育てのあり方を批判する人々に出会うたびに、ずいぶん大胆な

人たちだと思ってしまう。自分自身が十分に育てられ、また落ち度なく育てて

来たという自信が背後にあるのだろうが、そんなものは砂上の楼閣に過ぎない。

皆が危うい所で育て、育てられていることを基盤にしない限り、親の養育論議は

進展しないだろうと思う。

・いじめという行為においては、加害者の側には怒りや欲求不満などといった

人をして攻撃性に駆り立てる情動が必ず介在している。それらがもっぱら、弱者や

異質の存在に対して発露されることを考えると、基本的にはまず第一に攻撃性を

生じさせる精神状態をいかに緩和するかということが考えられなくてはならないと思う。

・校内暴力やいじめ、不登校といった現象は、個別に論じられてきたが、それらは

状況に対する発露の形式が異なるだけであって、それらを生み出す土壌はまったく

同じなのだという部分に論点を絞り込まない限り、小手先の対応しか編み出すことは

できないであろう。時代によって、表面化する現象はこれからも推移していくで

あろうが、取り巻く環境に変わりがない限り、今は潜在しているものが、ある時現象

として浮上してくることは、想像するに難しくないことである。

・今の日本の社会では子どもの利益については余り考えられていない。「子どもに

人権はない」と言い切る人もいるし、教育観も「子どもは無能であるから教育して

育てる」みたいな感覚が大人の側にある。子どもたちの尊厳、価値、権利、そう

いったものをもっと尊重する見方を高めていくことが求められている。

・不登校現象は、教育の問題にとどまらず、歴史の流れの中で、歴史を動かす1つの

動きじゃないかと思えるんですね。その動きを閉じ込めるのではなく、その動きに

添って問題を見ることも必要なのではないでしょうか。動きに添って子どもたちの

後ろからついて行った結果、変化していくものがあるのではないでしょうか。

子どもたちが学校から抜け出していく動きは、彼らが時代を変えようとしている

1つの姿だと思います。その動きを閉じ込めるのか、動きに添うのか、どちらの側に

自分が立つのかが問われているのでしょう。

・他者の援助を受ける人間を、一段低く見る考え方が社会にし浸透しているために

援助者たる専門家もまたクライアントを劣位にある者としてとらえた上で対応する

傾向がつよいのではなかろうか。例えば、患者が医師に対して、診療方針や投薬

された薬の効用などについての説明を求めると不愉快な顔をされたり、ひどい場合

には叱責されたりするという話は珍しくない。教育の世界でも、教師の指示に

従わない子どもたちには体罰などの懲戒行為を受けることは、私たちが度々見聞する

ところである。専門家は専門職としての技量を駆使し、クライエントの抱えている

問題に対して神の託宣よろしく解決策を与える。そこでは、クライエントはただ

無防備に身を投げ出し、無力なる存在としての役割を演じることになる。このように

専門家とクライエントの関係は、明瞭な上下関係をなすという図式になっている。

しかし、問題を抱えている当事者が人間として劣等で、専門家の立場にある者が

優れているわけではない。サービスをする側と受ける側という立場の相違は当然ある

としても、人間としての関係は対等なはずである。専門家にその視点が欠落して

いることによって、サービスを受ける側との間に違和感を生じさせたり、不幸な

場合には傷つけてしまうことさえある。

・人の固有の価値を認め尊厳を尊重するということについては、だれも異論を

はさまないであろう。だが、現実の生活の中でそのことを実行することは容易な

ことではない。私たちの周囲には、人の価値や尊厳を侮辱させるような条件に

満ち溢れている。性別や宗教・経済力・人権・政治信条・社会的地位・学歴など

数え上げていくときりがない。価値とか尊厳とは、そのような多くの条件に

とらわれず、1人ひとりの人間にあるということなのである。

競争社会に生きる私たちは、人間関係を勝ち負けや上下関係でとらえることに

慣れており、様々な条件を理由に、意識的にしろ無意識にしろ他者を差別したり

否定したりする。



# by ckdmhrbb | 2025-04-13 08:48 | 最近読んだ本より | Comments(0)

いじめで死なせない ―子どもの命を救う大人の気づきと言葉 岸田雪子より


PTSDの症状が出るほど壮絶ないじめの体験を語ってくれたM君。

「今も克服したとは思っていない」という。

PTSDは震災や火事、事故など、命に関わるような強い

ショックを受けた後に起きるケースが多い。つまり

いじめは震災などに匹敵するほど過酷なのだ。

・「今、幸せですか?」と聞いた。

「幸せ、という感覚が分からないんです。でも不幸ではないと

思います」親から子への愛情は、子が生きる力の源泉となる。

いじめられて学校を休んだ子どもにとって家庭は

緊急避難場所としての空間であると同時に

愛情というエネルギーを心に満たし、自信を取り戻す

ことができる大切な存在なのだとCさんの話をきいて

改めて思った

・今、いじめられている人にS君はこう伝えて

ほしいという。「学校にいかなくていい、では足りないと

思います。学校に行くな、と言ってほしい。

いじめられると、脳が破壊されている感覚で、自分で

判断する力がなくなってしまうんです。だから、まずは

学校に行くな、と言って心と身体を休ませてあげてほしいです」

・学校を休ませることに抵抗がある保護者も多いだろうが

教育基本法が教育の義務を課しているのはこどもではなく

大人の方だ。保護者には子どもに教育を受けさせる義務が

あるとし、国や地方自治体などには、教育の機会を

保障する責任があるとしている。~子どもにあるのは

「教育を受ける権利」だ。「安全に教育を受ける権利」

と言ってもいい。だからいじめによって子どもが

教育を受ける権利を奪われているのだとしたら

まずは学校という空間を安全な場所に戻すことが

大人に課せられた義務だろう。

・親は忙しくて自分のことを見ていない、と話す子どもは多い

共働き家庭が増える一方、長時間労働は簡単には変わらない

のだから、そのしわ寄せは子どもに来てしまう。

自立心が生まれ、親に反発することが増えてくると

親子の間に距離もでき始める。思春期の子どもが「秘密」を

持つことは正常な発達過程だ。でも「見守る」ことと

「見放す」ことは全く違う。子どもたちの心は親が思う

以上に不安定だし、友達関係も平穏無事ではない。そして

子どもには、忙しい親を思いやりたい気持ちもあるから

「学校で起きた面倒な出来事」を話したがらなくなる。

・いじめの経験を親に話すか、と聞いた時、ノーと答える

子どもが挙げる理由には「勉強のことしか言わない親に

話したってムダ」というものが多い。他には

「いつも勉強しろ、勉強しろばかり。どうせ勉強のことしか

関心ないんだから、親には最初から友だちのことなんて話さない」

「良い学校に入って、良い会社に就職してっていうのは

子どものためとかいうけど、本当は自分が安心したいわけ

でしょ。別に学校で何があったとか、関係ないでしょ。

いじめられてても、親には楽しいことばかり話してました。

楽しい話ばかりする子がいじめられていないとは

限らないんですよ」

・担任にもう1度、「いじめられているって言ったんですけれど」

というと「見ていた所、お前にも弱々しい所があるから

直した方がいい」と言った。

ショックでポカンとして言葉が出なかった。ぼくがわるいんだ

先生から見放されたんだと感じ、気持ちがガクンと落ち込んだ。

大人というものが信じられなくなった。大人は大人の価値観で

動くのだ、と感じた。子どもがいくら話しても、大人は大人の

論理で、平気で頭ごなしに否定してくるのだ。それは親も

同じに思えて、いじめのことは話さなかった。

・親というものをめぐる環境の変化も影響しているかも

しれない。共働き家庭が増え「仕事か育児か」とか「仕事も

育児も」などと、育児を一つのタスクや自己実現として

考える親が増えているのではないだろうか。そのぶん、

子育てにも「結果」を求め、子どもにも「結果を出すこと」を

求めがちになる。だからよけいに育児を先回りして

しまうのではないだろうか。

・「いじめは仲間同士の遊びから始まる」ということで。

最初は決まったメンバーの仲間のように見えた集団が

次第に1人を、もしくはターゲットを替えながら、

攻撃することをゲームのように「楽しんでしまう」のだ。

人間の持つ「支配欲」「権力欲」そして「攻撃性」が

むき出しになった感情。特定の個人をいたぶり

自分が優位に立ちことが快感になってしまう。

仲間内であるがゆえの強い結びつきから、

加害行為はエスカレートしてしまいやすい。そして

仲間内だから、周りからは被害が見えにくい。

「いじり」という言葉にカモフラージュされ、

「いじり」と「いじめ」の境界線はぼやけがちだ。

「笑いのため」という雰囲気に押されるように

被害側の子どもも「笑う」ことがある。もちろん心から

笑顔ではない。受け入れがたい現実に直面した時

精神のバランスを守るための顔だけの「笑顔」とでも

言おうか。周囲にいる大人も子どもも「笑っているから

大丈夫なのだろう」と勝手に思い込んで、発覚の

遅れにつながることも少なくない。

・かつていじめ行為をした経験がある子どもたちの心情を聞いた

*いじめることが連帯感になるんです、学校に自分の居場所を

作るために、いじめは仕方がないことになっている

拠点としての強迫観念みたいなもの

*みんなイライラを発散したいから、どんどん回ってくる

いじめがストレス発散になるんです

*自分もやらないと、なんでいじめないんだって言われるから

やらなきゃって、みんな一緒にやれば、多い方が安全かな、と

*学校自体、グループ行動が多いから、グループから外れる

わけにいかないから、仲間はずれになりたくなくて

みんながやるから、しかたなくやる

・自分たちの集団の絆を維持するために「敵」を

作ってしまうことも見て取れる。「敵」をつくるためには

勝手な「正義」を振りかざす。

「なんであいつだけ和を乱すんだって」

「上から目線でむかつくから」

個よりも集団を優先した学級活動が定着していると

他の子どもとペースが違うなど目立つ子どもがターゲットに

なりやすい面があるだろう。

・父親自身が暴力を受けた時の怒りや無念さから

暴力的ないじめを肯定する発想が生まれてしまった

のだろうか。

大人が子どもに暴力をふるったり、誰かに暴力をふるう

姿を子どもに見せたり、子ども同士の暴力や暴言を

許していたら「いじめはいけない」などと言われても

決して心に響くことはないだろう。教師がそれを

教えてしまうこともある。いまだに「指導」の名のもとに

子どもたちに手をあげる教師は存在するし、

「厳しく指導してくれてありがたい」と容認する

保護者がいることも事実だ。子どもたちはただ、大人の

真似をしているに過ぎない。子どもたちのいじめを

なくすために、変わらなければ私たち、大人の方なのだろう

・猟奇的な連続殺傷事件と学校内で起きるいじめは

もちろん違う。けれど、子どもたちの攻撃的な行動の

背景を知る上で考えさせられるところはあるのでは

ないだろうか。人は幼いころに保護者などから注いで

もらった愛情により、人を思いやることを知り、人を

信じ、また自分を信じる力を身につける。親は親なりに

愛情を注いでいても、子どもの求めていた形とは違う

場合もある。例えば親は「教育」や「習い事」が愛情

だと思っていたけれど、子どもが求めていたのは

「ありのままの自分をただ認めてくれること」だった

というように。子どもがある日突然、犯罪事件を起こす

ことはない。事件や非行は、彼らの「生きづらさ」の

表れでもあるように思えてならない。

・いじめ防止対策推進法の中身

「いじめを行ってはならない」

「いじめかどうかは、被害者が心身の苦痛を感じているか、できまる」

「いじめが確認されたら、学校はいじめをやめさせなければならない」

「学校はいじめ防止の基本方針を定め、対策のための組織を

作り、いじめの防止、早期発見、対応に努める」

「いじめによって子どもの命、心身、財産に重大な被害が

生じたり、学校を休まなければならなくなっている

疑いがあれば、学校は<重大事態>として特別な

組織を設け、調査をしなければならない」

・なぜ本人や周囲の子どもたちがいじめを訴えても、教師は

「けんか」や「ただのトラブル」としてしまうのか。

理由のひとつには「いじめとは何か」を教師が誤って

限定的にとらえている現状がる。総務省が2018年に

公表した調査でも、全国の公立小中学校249校のうち

およそ4分の1にのぼる59校が、「いじめの定義」を

法律よりも狭く解釈し、いじめを見逃すおそれがあった

ことが明らかになった。

・例えば、ある学校では子どもが数人から下着まで

下げられ、ひどく傷ついたことを教育相談で把握した

のに、「単発的だから」という理由で、いじめと

認知していなかった。

また、ある学校では子どもが顔を殴られるなどの暴力

行為をされていることを教師が発見したのに

「一方的ではないから」という理由で、いじめではなく

けんかと判断していた。

いじめの定義は2013年にいじめ防止対策推進法ができた

際に変わっているのに、学校現場の認識が追い付いて

いないことが如実にわかる。

・かつて、国はいじめの定義を「自分より弱い者に

対して一方的に、攻撃を継続的に加え、相手が

深刻な苦痛を感じている」としていた時代があった。

けれど今は、より被害者の子どもの視点に立って

「心身の苦痛を感じていれば」いじめだとしている

「立場の強弱」は関係ないし、「一方的」でなくても

「継続的」でなくても、「心身の苦痛を感じていれば」

いじめなのだ。教師一人一人が新たな概念をいつも

心に留め、いじめ行為を止めるために素早く子どもたちに

働きかけてほしいと思う

・複数の小中学校の現役教師たち数人からの本音

*職員室には独特の<常識>がある

*いじめはあくまで「あってはならない問題」だという

考えに凝り固まっている空気が職員室にはあります、

学校では毎日たくさんの生徒同士のけんかやトラブルが

あります、その1つ1つがいじめなのか、と確認する

わけですが、その時、根底に「いじめがあるのはよくない」

という意識があるから、加害者が「いじめてない」と否定

すると、反省文を一筆書かせて謝って終わり、

「トラブル」として処理してしまうこともあります

*反省文を書かせる、というマニュアルがあるわけでは

ないのですが、何となく、それが基本の流れみたいに

なっている。こんな表面的な対応ではいけないと

思うけれど、どうすればいいのかが分からず、職員室

全体が思考停止になっている感じです

*いじめの認知件数は多くていいと国からは言われるけど

実際問題として、多くていいと本気で思っている教師は

いないと思います、教育委員会に対して、いじめが多いと

報告すると、どうなっているんだと責められる空気が

あります。学校の評判に関わるのですから、やっぱり

いじめはないに越したことはありません

・ある中学校のグループワーク授業で、「今までに見たり

聞いたりしたことのあるいじめ」について

*シカト

*紙に悪口を書いて回す

*仲間はずれにする

LINEで一人だけ無視する

*髪の毛を切る

*暴力

*机の上にラクガキ

*お金を取られる

*帰ってる途中に道路に突き飛ばされる

*死ねとか消えろって言われる

*トイレに顔面を突っ込む

*いじめに先生もくわわる

・学校現場のいじめ対応の難しさを語る時、教師たちが

口にするのが「忙しい」という言葉だ。「子どもたちの

問題行動に対して、穏やかに指導するのには時間が

かかるのに、その時間がない。授業以外で子どもたちと

話をする時間は、1日に10分か15分くらいしかない

ことも多いのです」

確かに、中学校教師のおよそ6割の時間外労働が

月に80時間超の「過労死ライン」を超えているという

現状は異常事態だ(平成28年度文科省調査)

精神疾患による病気休職者も1年間に5千人近くに

のぼっている(平成28年度文科省調査)しかし、子どもと

向き合う時間が取れないのでは教師として本末転倒だ

どんな業務が弊害になっていると感じているのか、

インターネットの回答

*教室の備品や消耗品の管理

*教材の管理や注文

*奨学金、受験、留学に関する資料作成などの事務作業

*校舎の開錠や施錠をする当番

*草取りやペンキ塗り

・子どもたちにとっては、誰が通報したのかわからない

仕組みは有効だと思う。通報を受けて学校に連絡した後が

さらに重要で、通報者と被害者の安全を長く継続して

見守る体制を作らなければならないだろう。

出る杭は打たれる、が浸透した日本では、子どもたちは

積極的に「通報する」より「嵐が過ぎ去るのを待つ」ことを

選びがちかもしれない。けれど、学校の内外で子どもたちの

声を聞くと「本当は助けたい」という思いを持つ子も

決して少なくない。そうした子どもたちに働きかけ

大人への通報を促すことは、被害を受けた子どもが

いじめから抜け出すための、カギになると思う



# by ckdmhrbb | 2025-03-30 11:09 | 最近読んだ本より | Comments(0)
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1997年発足・子どものいじめを防止し命と安全を守る出前授業を実施しています。毎回のアンケート結果を公表します。


by Cepkodomohiroba
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